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日本列島の形成

日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあったのは、今からおよそ1500万年前で、現在のテクトニクスは約300万年前にほぼ出来上がった。更新世の氷期と間氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こった。

しかしながら、従来の学説では氷期日本列島大陸と陸続きになり日本人の祖先は獲物を追って日本列島にやってきた[2]とされてきたが、近年の研究では氷期の最寒期でも津軽海峡対馬海峡には海が残り陸続きにならなかったことが分かってきた。また舟を使わないと往来できない伊豆諸島神津島産の黒曜石関東地方後期旧石器時代の遺跡で発見されていることなどから、「日本人の祖先は舟に乗って日本列島にやってきた」という研究者の発言[3]も新聞で報道されている。しかし、この時期には船の遺物は発見されていないため少数の意見である。

一方、約4万年前の後期旧石器時代早期より黒曜石の採掘が続けられた栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群では知的で効率的な作業の痕跡も確認されている。

また、4万年〜3万年前には世界最古の磨製石器が製作されており、すでに日本では独自の文化が形成されていたことがうかがえる。

旧石器から縄文へ

最終氷期の約2万年前の最盛期が過ぎると地球規模で温暖化に向かった。最後の氷期である晩氷期と呼ばれる約1万3000年前から1万年前の気候は、数百年で寒冷期と温暖期が入れ替わるほどで、急激な厳しい環境変化が短期間のうちに起こった。

それまでは、針葉樹林が列島を覆っていたが、西南日本から太平洋沿岸伝いに落葉広葉樹林が増加し拡がっていき、北海道を除いて列島の多くが落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われた。コナラ亜属やブナ属、クリ属など堅果類が繁茂するようになった。北海道はツンドラが内陸中央部の山地まで後退し、亜寒帯針葉樹林が進出してきた。そして、日本海側と南部の渡島半島では、針葉樹と広葉樹の混合林が共存するようになる。また、温暖化による植生の変化は、マンモストナカイ、あるいはナウマンゾウオオツノジカなどの大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、約1万年前までには、日本列島からこれらの大型哺乳動物がほぼ絶滅してしまった。

この草創期の特徴は以下のように指摘されている。

  • 新しい道具が短期間に数多く出現した
    • 例えば、石器群では、大型の磨製石斧、石槍、植刃、断面が三角形の錐、半月系の石器、有形尖頭器、矢柄研磨器、石鏃などが、この期に出現する。
  • 使われなくなっていく石器群、新しく出現する石器群が目まぐるしく入れ替わった。
  • 草創期前半の時期は、遺跡によって石器群の組み合わせが違う。
  • 急激な気候の変化による植生や動物相、海岸線の移動などの環境の変化に対応した道具が次々に考案されていった。
  • 狩猟・植物採取・植物栽培・漁労の3つの新たな生業体系をもとに生産力を飛躍的に発展させた。

縄文時代早期

日本列島の旧石器時代の人々は、大型哺乳動物(ヘラジカヤギュウオーロックス、ナウマンゾウ、オオツノシカなど。)や中・小型哺乳動物(ニホンジカイノシシ、アナグマ、ノウサギなど。)を狩猟対象としていた。大型の哺乳動物は季節によって広範囲に移動を繰り返すので、それを追って旧石器時代人もキャンプ生活を営みながら、頻繁に移動を繰り返していた。キル・サイト[* 2]やブロック[* 3]、礫群[* 4]、炭の粒の集中するところなどは日本列島内で数千ヶ所も発見されているが、竪穴住居などの施設を伴う遺跡はほとんど発見されていない。

旧石器時代の人々は、更新世の末まで、キャンプ生活・遊動生活を営みながら頻繁に移動生活を繰り返してきた。旧石器時代から縄文時代への移行期である草創期には一時的に特定の場所で生活する半定住生活を送るようになっていた。縄文早期になると定住生活が出現する。鹿児島市にある加栗山遺跡(縄文時代早期初頭)では、16棟の竪穴住居跡、33基の煙道つき炉穴、17基の集石などが検出されている。この遺跡は草創期の掃除山遺跡や前田遺跡の場合と違って、竪穴住居跡の数の大幅な増加、住居の拡張、重複した住居跡、これらの住居跡やその他の遺構が中央広場を囲むように配置されている。

加栗山遺跡とほぼ同時期の鹿児島県霧島市にある上野原遺跡では46棟の竪穴住居をはじめ多数の遺構が検出されている。このうち13棟は、桜島起源の火山灰P-13に覆われていることから、同じ時に存在したものと推定できる。この13棟は半環状に配置されていることから、早期初頭には、既に相当な規模の定住集落を形成していたと推定される[誰によって?]

縄文早期前半には、関東地方[* 5]に竪穴住居がもっとも顕著に普及する。現在まで、竪穴住居が検出された遺跡は65ヶ所、その数は300棟を超えている。そのうちで最も規模の大きな東京都府中市武蔵台遺跡では24棟の竪穴住居と多数の土坑が半環状に配置されて検出されている。

南関東や南九州の早期前半の遺跡では、植物質食料調理器具である石皿、磨石、敲石、加熱処理具の土器も大型化、出土個体数も増加する。定住生活には、植物質食料、特に堅果類が食料の中心になっていたと想像されている。南関東の定住集落の形成には、植物採集活動だけでなく、漁労活動も重要な役割を果たしていたと考えられている[誰によって?]

一方、北に目を転じれば、北海道函館市中野B遺跡からは縄文早期中頃の500棟以上の竪穴住居跡、多数の竪穴住居跡、土壙墓、落とし穴、多数の土器、石皿、磨石、敲石、石錘[* 6]が出土して、その数は40万点にも上っている。津軽海峡に面した台地上に立地するこの遺跡では、漁労活動が盛んに行われ、長期にわたる定住生活を営むことが出来たと考えられる。また、東海地方の早期の定住集落、静岡県富士宮市若宮遺跡は28棟の竪穴住居をはじめとする多数の遺構群とともに、土器と石器が18,000点ほど出土している。この遺跡が他の早期の遺跡と大いに違う点は、狩猟で使用する石鏃2,168点も出土したことである。富士山麓にあるこの遺跡では、小谷が多く形成され、舌状台地が連続する地形こそ、哺乳動物の生息に適した場であった。つまり、若宮遺跡では、環境に恵まれ、獲物にも恵まれて定住生活を営む上での条件が揃っていたと推定される[誰によって?]

移動生活から定住的な生活への変化は、もう一つの大きな変化をもたらした。その変化はプラント・オパール分析[* 7]の結果から判明した。一時的に居住する半定住的な生活の仕方では、周辺地域の開拓までに至らなかったが、定住的な生活をするようになった縄文時代人は居住する周辺の照葉樹林や落葉樹林を切り開いたことにより、そこにクリクルミなどの二次林(二次植生)の環境を提供することとなった。定住化によって、縄文人は、集落の周辺に林床植物と呼ばれる、いわゆる下草にも影響を与えた。ワラビゼンマイフキクズヤマイモノビルなどの縄文人の主要で安定した食料資源となった有用植物が繁茂しやすい二次林的な環境、つまり雑木林という新しい環境を創造したことになる。縄文時代の建築材や燃料材はクリが大半であることは遺跡出土の遺物から分かっている[10][12]。2013年、福井県鳥浜貝塚から世界最古級(約11000〜15000年前)の調理土器が発見された。これにより、サケなどの魚を調理していた可能性が判明した[リンク切れ][13]

縄文文化の歴史的変遷

縄文文化の分布範囲

縄文文化の定義は一様ではないため、縄文文化が地理的にどのような範囲に分布していたかを一義に決定することはできない。縄文土器の分布を目安とした場合、北は樺太南部と千島列島、南は沖縄本島を限界とし、宮古島八重山諸島には分布しない(八重山諸島は台湾島の土器と同系統のもの)。すなわち、現在の日本国の国境線とは微妙にズレた範囲が縄文土器の分布域である。

気候の変化と縄文文化の発展

縄文時代は1万年という長い期間にわたり、大規模な気候変動も経験している。また日本列島は南北に極めて長く、地形も変化に富んでおり、現在と同じように縄文時代においても気候や植生の地域差は大きかった。結果として、縄文時代の文化形式は歴史的にも地域的にも一様ではなく、多様な形式を持つものとなった[14]

約2万年前に最終氷期が終わってから6000年前頃までは、地球の気温は徐々に温暖化していった時期である。この間に日本列島は100m以上もの海面上昇を経験している。縄文土器編年区分においてはこれは縄文草創期から縄文前期に相当する(13000年前-6000年前)。また、約6000年前には海面が現在より4m〜5m高く縄文海進と呼ばれており、海岸部の遺跡の分布を考える上で参考になる。

縄文草創期当時の日本列島の植生は冷涼で乾燥した草原が中心であったが、落葉樹の森林も一部で出現していた。また地学的に見ても、北海道と樺太は繋がっており、津軽海峡は冬には結氷して北海道と現在の本州が繋がっていた。瀬戸内海はまだ存在しておらず、本州、四国、九州、種子島屋久島、対馬は一つの大きな島となっていた。この大きな島と朝鮮半島の間は幅15キロメートル程度の水路であった。その後、温暖化により海面が上昇した結果、先に述べた対馬朝鮮半島間の水路の幅が広がって朝鮮海峡となり、対馬暖流が日本海に流れ込むこととなった。これにより日本列島の日本海側に豪雪地帯が出現し、その豊富な雪解け水によって日本海側にはブナなどの森林が形成されるようになった。

縄文早期には定住集落が登場した他、本格的な漁業の開始、関東における外洋航行の開始など新たな文化要素が付け加わった。最も古い定住集落が発見されているのが九州南部の上野原遺跡金峰町の遺跡で、およそ1万1000年前に季節的な定住が始まり、1万年ほど前に通年の定住も開始されたと推測されている。定住が開始された理由としては、それまで縄文人集団が定住を避けていた理由、すなわち食料の確保や廃棄物問題、死生観上の要請などが定住によっても解決出来るようになったためではないかと見られる[15]。この時期の土器は北東アジア系、華北・華中系[* 8]、華南系[* 9]の3系統に分けられており、分布面から見ると北東アジア系は北海道から東日本に、華北・華中系は西日本、華南系は南日本から出土している。植生面から見ると、縄文早期前半は照葉樹林帯は九州や四国の沿岸部および関東以西の太平洋沿岸部に限られており、それ以外の地域では落葉樹が優勢であった。

縄文前期から中期にかけては最も典型的な縄文文化が栄えた時期であり、現在は三内丸山遺跡と呼ばれる場所に起居した縄文人たちが保持していたのも、主にこの時期の文化形式である。この時期には日本列島に大きく分けて9つの文化圏が成立していたと考えられている(後述)。海水面は縄文前期の中頃には現在より3mほど高くなり、気候も現在よりなお温暖であった。この時期のいわゆる縄文海進によって沿岸部には好漁場が増え、海産物の入手も容易になったと林謙作は指摘している。植生面では関ヶ原より西は概ね照葉樹林帯となった。

縄文後期に入ると気温は再び寒冷化に向かい、弥生海退と呼ばれる海水面の低下がおきる。関東では従来の貝類の好漁場であった干潟が一気に縮小し、貝塚も消えていくこととなった。一方、西日本や東北では新たに低湿地が増加したため、低湿地に適した文化形式が発達していった。中部や関東では主に取れる堅果類がクリからトチノキに急激に変化した。その他にも、青森県亀ヶ岡石器時代遺跡では花粉の分析により、トチノキからソバへと栽培の中心が変化したことが明らかになっている。その結果、食料生産も低下し、縄文人の人口も停滞あるいは減少に転じる。文化圏は9つから4つに集約され、この4つの文化圏の枠組みは弥生時代にも引き継がれ、「東日本」・「九州を除く西日本」・「九州」・「沖縄」という現代に至る日本文化の地域的枠組みの基層をなしている。

縄文文化の地域性

縄文文化は日本列島のどの地域でも同質のものだったのではなく、多様な地域性を備えた文化群であったことが指摘されている。

土偶の分布に見る地域性

縄文人が製作した土偶は、縄文時代の全期間を通して日本列島各地で満遍なく使われていたのではなく、時期と地域の両面で限定されたものであった。すなわち、縄文早期の更に前半期に関東地方の東部で集中的に使用された後、縄文中期に土偶の使用は一旦消滅している。その後、縄文後期の前半に東日本で再び土偶が使用されるようになる。一方、それまで土偶の使用が見られなかった九州においては、縄文後期になって九州北部および中部で土偶が登場している。

こうした土偶の使用の地域性について藤尾は、ブナ、ナラ、クリ、トチノキなどの落葉性堅果類を主食とした地域(つまりこれら落葉樹林に覆われていた地域)と、西日本を中心とした照葉樹林帯との生業形態の差異と関連づけて説明している。落葉性堅果類、すなわちクリやいわゆるドングリは秋の一時期に集中的に収穫され、比較的大きな集落による労働集約的な作業が必要となるため、土偶を用いた祭祀を行うことで社会集団を統合していたのではないかという考え方である[16]

縄文時代の文化圏

前述のように、縄文前期には日本列島内に九つの文化圏が成立していたと考えられている。

石狩低地以東の北海道
エゾマツトドマツといった針葉樹が優勢な地域。トチノキやクリが分布していない点も他地域との大きな違いである。トドアザラシオットセイという寒流系の海獣が豊富であり、それらを捕獲する為の回転式離頭銛が発達した。
北海道西南部および東北北部
石狩低地以東と異なり、植生が落葉樹林帯である。ミズナラコナラ、クルミ、クリ、トチノキといった堅果類の採集が盛んに行われた。回転式離頭銛による海獣捕獲も行われたが、カモシカやイノシシなどの陸上のほ乳類の狩猟も行った点に、石狩以東との違いがある

続縄文時代(ぞくじょうもんじだい)は、北海道を中心に紀元前3世紀頃から紀元後7世紀弥生時代から古墳時代)にかけて、擦文文化が現れるまで続いた時代で、続縄文文化に対応する。縄文時代から引き続くものとして山内清男により名づけられ、実際に連続する要素は多い[1]。 南部に恵山文化、中央部に江別文化、その終末期(5 - 6世紀、古墳時代中期から末期)の北大文化など、内部には地域と時代により異なる文化が含まれる。

概要

本州の住民が水稲栽培を取り入れて弥生時代に移行したときに、気候的条件からか水田を作らず縄文時代の生活様式を継承した人々が営んだ文化が、本州の弥生古墳文化に並行する続縄文文化である。このときまで本州北海道の住民は同じ縄文文化を共有していたが、ここで道が分かれることになった。

続縄文文化の人々は竪穴式住居に住み、狩猟漁労を中心に、採集と原始的栽培も行った。縄文時代と比べ、魚介海獣の比重が大きかった。アワキビヒエソバの存在から、これらの穀物を栽培していた可能性が高い。遺物となった道具としては、石斧、石ナイフなど多様な石器がある。他に本州製の鉄製品が入り込み、後期には鉄器の普及が石器製作技術の衰退を招いた形跡がある。骨角器も多く出土している。遺物として残りにくい木器と繊維製品は出土数こそ少ないが、当時は盛んに用いられていたと考えられる。

続縄文時代には、北海道北部が大陸樺太方面から、北海道南西部が本州からの文化と産物の流入の窓口になっていた。北方産とみられる琥珀製の玉類が北海道から東北地方北部にまで分布し、佐渡島産とみられる碧玉製の管玉が石狩川河口付近までみられる。逆に続縄文文化が北海道の外に拡大する動きもあり、樺太南部や東北地方北部、千島列島に広がっていた。

この時代の後期にあたる5世紀古墳時代中期)から、樺太から北海道のオホーツク海沿岸にかけてオホーツク文化が定着した。これは続縄文文化とは異質のものである。

移動

擦文時代(さつもんじだい)は、北海道の歴史のうち、7世紀ごろから13世紀飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて、擦文文化が栄えた時期を範囲とする時代区分本州土師器の影響を受けた擦文式土器を特徴とする(青苗文化も参照)。後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとってかわられた(詳細は「蝦夷#えみし」の項を参照)。

なお、9世紀平安時代前期)までの北海道では、擦文文化と並行して、異なるオホーツク文化北海道北部から東部オホーツク海沿岸に広がっており、その後13世紀(鎌倉時代後期)までは、その系譜を継ぐトビニタイ文化が北海道東部を中心に擦文文化圏と隣接していた。トビニタイ文化はオホーツク文化に擦文文化が採り入れられたものだが、後期には擦文文化との違いが小さくなったため、トビニタイ文化を擦文文化に含める考えがある。

時代と分布

擦文式土器の使用の始まりは、6世紀後葉から7世紀はじめ(飛鳥時代に相当)にあり、ここから擦文時代が始まる。前代の続縄文時代には、土器に縄目の模様が付けられたが、擦文時代には表面に刷毛目が付けられた。これは土器の表面を整えるためへらで擦ってつけたものと考えられており、擦った(こすった)文様が、「擦文」の名の由来である。

この土器の表面調整技法は同時期の本州の土師器にも使用されており、この点にも土師器からの強い影響が窺える。土器型式では北大II式までは続縄文土器であり北大III式から擦文土器に含まれる。擦文土器は前代の続縄文土器の影響が残る時期のもの(6 - 7世紀、飛鳥時代)、土師器の影響を最も強く受け東北地方の土師器に酷似する時期のもの(7世紀後半 - 8世紀、奈良時代ころ)、擦文文化独特の土器に刻目状の文様が付けられる時期(9世紀、平安時代前期以降)のものに大別される。独特の刻目状の文様の土器を狭義の擦文土器とする研究者も存在する。

擦文文化からアイヌ文化への移行についてははっきりしたことがわかっていない。これは、確認された遺跡の数の少なさと共に、土器が消滅して編年が困難になったせいでもある。11世紀から13世紀(平安時代後期から鎌倉時代後半)に終末を迎えたようである。

分布は現在の北海道を中心とする地域であるが、10世紀から11世紀にかけて(平安時代中期青森県地方を中心とする北緯40度以北に擦文文化圏が広がったとする見解が複数の研究者から指摘されている[1]

生活

擦文時代の集落は、狩猟や採集(狩猟採集社会)に適した住居の構え方をしていた。たとえば、秋から冬にかけてサケマスなどの獲物をとる時期には、常呂川天塩川などの河口の丘陵上に竪穴住居の大集落、つまり本村を構え、他の時期には、狩猟などを営む分村として、川の中流より奥に集落を作ったと考えられている。

擦文文化の人々は、河川での漁労を主に、狩猟とキビソバヒエ緑豆などの栽培植物の雑穀農耕から食料を得ていた。わずかだがも検出されており、日本三代実録の記述から、それを本州との交易によって得ていたと考える研究者もいる[2]

擦文時代には鉄器が普及して、しだいに石器が作られなくなった。普及した鉄器は刀子(ナイフ)で、木器などを作る加工道具として用いられたと考えられている。他に装身具釣り針裁縫用のなど様々な鉄製品が用いられた。や中国の銅銭も見つかっている。これら金属器は主に本州との交易で入手したが、北方経由で大陸から入ってきたものもあった。製鉄は行わなかったと見られるが、鉄の加工(鍛冶)の跡が検出されている。また青森県五所川原で作られた須恵器が北海道各地から出土している。

擦文文化の人々は方形の竪穴式住居に住み、川のそばに大小の集落を作って暮らしていた。前代の続縄文時代後半の住居は検出された例が極めて少なく、実態は不明である。擦文文化の竪穴式住居には日本本土の古墳時代の住居同様、煙道付きのカマドが設けられている。だが後のアイヌ文化期に、カマドは使用されなくなった。

伸展葬土坑墓が一般的な埋葬形態である。8世紀後半から9世紀奈良時代から平安時代前期)には、北海道式古墳と呼ばれる小型の墳丘墓が石狩低地帯石狩平野西部と勇払平野)に作られた。東北地方北部の終末期古墳と類似しており、東北地方北部との多様な交流関係が窺える。

一方で10世紀半ばから12世紀はじめ(平安時代中期から平安時代後期)にかけて、北東北地方から樺太にかけて環濠集落高地性集落が多数見られることから、これを防御性集落とし、「蝦夷(えみし)」から「蝦夷(えぞ)」への転換時期とする見解が出されている[1]

オホーツク文化(オホーツクぶんか)は、3世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北海岸、樺太、南千島の沿海部に栄えた海洋漁猟民族の文化である[1]。この文化の遺跡が主としてオホーツク海の沿岸に分布していることから名付けられた。このうち、北海道に分布している遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推定されている。

同時期の日本の北海道にあった続縄文文化擦文文化とは異質の文化である。

概要

海獣狩猟や漁労を中心とする生活を送っていたオホーツク文化の担い手を、オホーツク文化人、また単にオホーツク人とも呼ぶ。『日本書紀』に現れる粛慎と考える見方が有力で、近年行われた人骨の遺伝子調査から、ニヴフ人コリヤーク人との近似性が示されている。

トビニタイ文化をオホーツク文化に含めるかどうかについては、現在のところ意見が分かれている。トビニタイ文化は9世紀から13世紀まで北海道東部にあり、擦文文化の影響を受け、海岸から離れた内陸部にも展開した。オホーツク文化が擦文文化と融合し両者の中間的なトビニタイ文化へ変化し、最終的に擦文文化に吸収されたという説もあるが[1]、両者の継続性を認めてオホーツク文化の一部にする考えと、生活の違いを重視してオホーツク文化に含めない考えとがある。本項では煩を避けるためトビニタイ文化を含めずに説明する。

時代と分布

オホーツク文化は土器の特徴にもとづいて初期、前期、中期、後期、終末期の5期に区分される。オホーツク文化の発生地は樺太南西端と北海道北端で、初期は3世紀から4世紀までで、土器の形式からは先行する鈴谷文化を継承している。そこから拡大して北海道ではオホーツク海沿岸を覆い、樺太の南半分を占めた。この5世紀から6世紀を時期を十和田式土器に代表される前期とする。中期は7世紀から8世紀で、活動領域はさらに広く、オホーツク文化の痕跡は東は国後島、南は奥尻島、北は樺太全域に及んでいる。9世紀から10世紀の後期には、土器の様相が各地で異なる。終末期の11世紀から13世紀には土器の地域的な差違がさらに明確化する。

9世紀に北海道北部では擦文文化の影響が強まり、オホーツク文化は消滅した[1]。同じ頃、北海道東部ではオホーツク文化を継承しながら擦文文化の影響を受けたトビニタイ文化が成立した[1]。樺太ではオホーツク文化がなお続き、アイヌ文化の進出によって消えたと考えられるが、その様相ははっきりしていない。

生活

この地域での稲作は当時は技術的に不可能であり、北海道北部と樺太では漁業に、北海道東部では海獣を対象とした狩猟におくなど海に依存して暮らしていた[1]流氷の影響を受ける道東が冬の漁業に適していなかったためと考えられている。秋にホッケ、冬にタラ、春にはニシンなどの海水魚類を対象とした網漁が行われた。アザラシオットセイトドアシカなどの海獣も冬に得られた。夏にはカサゴ・ソイなど様々な魚を獲ったが、その量は冬より少なかった。遺物に描かれた絵[2]から捕鯨を行っていたこともわかっている。

また、弥生時代以降の本州と同様に家畜であるを飼い、どちらも食用にしていた。道東では豚飼育は低調だった。また、熊(ヒグマ)をはじめとして様々な狩猟獣を狩った[1]。そこでは毛皮獣の比重が高く、交易用の毛皮を入手するための狩りと考えられている。

集落は海岸のそばに置かれた。住居は竪穴式であるが木材や土で補強し床には粘土を敷くなどの工夫が見られた[1]。大規模住居は中心集落では複数の家族が生活できる大型の住居と[1]、一つの核家族で暮らしたと思われる小型の住居があった。

オホーツク人は、秋から春までは中心集落に住んで共同で大規模な漁を営み、漁が低調になる夏には各地の海岸に分散したと考えられている。住居の奥に動物の骨を並べる風習があった。並べられた動物は様々だが、特に熊が重要視されていた[1]。熊の重視は、道具類の意匠にも見られる特徴である[1]

道具としては、オホーツク式土器、石器骨角器木器がみられる。製鉄技術が無かったため金属製品は少なく、本州との交易で入手した蕨手刀が副葬品として少数見つかった程度である[3]。実用品の装飾に動物の意匠を用いたほか、牙や骨で作った動物や女性の像が作られた。船の土製の模型から、オホーツク人が丸木舟ではなく構造船を建造していたことが分かっている[1]

死者は基本的に屈葬された。しかし、目梨泊遺跡の人々は伸展葬の伝統を持ち続けた。

起源と末裔

オホーツク文化には大陸系文化の影響が明確に認められ、同文化のアムール流域靺鞨族の直接移住説をはじめ多くの大陸起源説、影響説が提出されている[4]

オホーツク人の系統については、文献と考古学的証拠が少ないことから論議があった。現在のところ、大陸からの直接的な移住者が形成したものではなく、鈴谷式土器の時代(紀元前1世紀から紀元6世紀)から樺太に住んでいた人々の中から生まれた文化で、下って現在のニヴフ人につながるとする説が有力である(外部リンク参照)。他に、靺鞨同仁文化のような大陸の文化や、古コリャーク文化トカレフ文化のようなオホーツク海北岸の文化との類似性が指摘される[5]

オホーツク文化は、後期に擦文文化の要素を取り入れるようになった。トビニタイ文化の時代に擦文文化の要素はさらに強くなり、両方の文化要素の混在が見られるようになった。また、後のアイヌ文化の中には、熊の崇拝のようなオホーツク文化にあって擦文文化にない要素がある。そのため、この方面のオホーツク人は、擦文文化の担い手とともにアイヌ文化を形成したと考えられている[6][7]。アイヌは和船のような構造船(イタオマチㇷ゚)を使っていたと推察されるが、これもオホーツク文化の影響ともされる。

オホーツク人の遺伝子

2009年、北海道のオホーツク文化遺跡で発見された人骨が、現在では樺太北部やシベリアアムール川河口一帯に住むニブフ族に最も近く、またアムール川下流域に住むウリチ、さらに現在カムチャツカ半島に暮らすイテリメン族コリヤーク族とも祖先を共有することがDNA調査でわかった[8][9]

近年の研究で、オホーツク人がアイヌ民族と共通性があるとの研究結果も出ている。オホーツク人のなかには縄文人には無いがアイヌが持つ遺伝子のタイプであるmtDNAハプログループY遺伝子が確認され、アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性も判明した [10]。アイヌ民族は縄文人和人にはないハプログループY遺伝子を20%の比率で持っていることが過去の調査で判明していたが、これまで関連が不明だった。

トビニタイ文化(トビニタイぶんか)は、9世紀ごろから13世紀ごろにかけて、北海道道東地域および国後島付近に存在した文化様式の名称である。1960年東京大学の調査隊が羅臼町飛仁帯(とびにたい)で発見した出土物が名称の由来である。

解説

トビニタイ文化の直接の源流はオホーツク文化である。オホーツク文化に属する人々は以前から北海道に南下していたが、7世紀から8世紀にかけては道北・道東に広く進出していた。その後、9世紀になって擦文文化に属する人々が道北に進出すると、道東地域のオホーツク文化圏は中心地である樺太から切り離されてしまった。その後この地域のオホーツク文化は擦文文化の影響を強く受けるようになり、独自の文化様式に移行していった。これが現在ではトビニタイ文化と呼ばれる文化様式である。

トビニタイ文化はその後、擦文文化に同化し、13世紀初め頃には姿を消した。

熊の崇拝

斜里町ウトロ地区入口にある、トビニタイ文化期のチャシコツ岬下B遺跡から2005年ヒグマ祭祀に用いた痕跡と思われるヒグマのが発見された[1]。これにより、擦文文化には見られなかった一方でオホーツク文化には存在した熊崇拝は、トビニタイ文化を経由してアイヌ文化にもたらされたのではないかとの見方も浮上している。一方、文献上で確認される熊崇拝に関する記述は『津軽一統志』におけるシャクシャインの戦い時のものであることなどから、熊崇拝をトビニタイ文化から直接アイヌが受容したものではなく、アイヌの樺太進出以降に長い時間をかけ受容されたものとする中村和之の見解もある[2]


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