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阿倍比羅夫

 
阿倍比羅夫
Abe no Hirafu.JPG
『大日本名将鑑 阿部比羅夫』(月岡芳年画)
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 不明
官位 大錦上筑紫大宰帥
主君 皇極天皇孝徳天皇斉明天皇
氏族 阿倍引田臣
父母 父:阿倍目?阿倍浄足?
宿奈麻呂、引田広目、安麻呂、船守
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阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ、生没年不詳)は、7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。氏姓は阿倍引田臣。冠位大錦上越国守・後将軍大宰帥を歴任した。斉明天皇4年(658年)から3年間をかけて日本海側を北へ航海して蝦夷を服属させ、諸説あるが北海道あるいは樺太の粛慎と交戦した。

出自

阿倍氏は古くから北陸道方面の計略で活躍した氏族である。複姓が多く見られ、阿倍引田臣もその一つ。引田臣の性格については、比羅夫の活動にも関連して二説ある。一つは中央豪族である阿倍氏の一支族とするもの、もう一つは越国の地方豪族とするものである。

中央出身説は、当時の国司が中央豪族から派遣されていたことを根拠とする[1]

比羅夫の父親の名は必ずしもはっきりしないが、各種系図(「阿倍家系」(『備後福山 阿倍家譜』所収)、鈴木真年『百家系図稿』巻5,阿倍)では、阿倍氏の宗族である阿倍目とするものが多い。しかし目は敏達朝の人物であり時代が合わず、さらに前述の系図は比羅夫の子孫に伝わったものと想定され、比羅夫の系統を阿倍氏の宗族に位置づけようとした意図が考えられることから、比羅夫を目の子とするのは疑問とする[2]。また、阿倍氏の庶流にあたる阿倍浄足とする系図もある[3]

一方、太田亮は越国守であることを根拠に越国造家の一族の可能性を指摘している[4]。なお越国造に関して、宝賀寿男は越国造家の阿倍氏出自説に疑問を呈しており、同国造は本来は三輪氏・磯城県主一族の北陸分岐であると見ている[5]

なお、『日本書紀』で比羅夫の活動を記す部分は、当時の阿倍氏宗家(阿倍御主人の布勢氏)が提出した家記によると推定されているが、「阿倍臣(名を欠く)」と人名は記されていない。歴史学者の坂本太郎は、書紀編纂時の阿倍宗家が引田氏を快く思わなかったために、敢えて名を隠して阿倍氏の活躍とだけ記した史料を提出したのではないかと推定している[6]

経歴

大化5年(649年左大臣阿倍内麻呂が没して阿倍氏の宗家が絶えたため、比羅夫は傍系出身ながら阿倍氏一族の最有力者として、氏上的な地位に就いたと想定される[7]

蝦夷征討・粛慎討伐

斉明天皇4年(658年)4月から斉明天皇6年(660年)5月にかけて、越国守であった比羅夫が蝦夷粛慎征討を行ったことが『日本書紀』に記されている。これらには重複を指摘する意見のほか、30年ほど前には一部の事象のみを史実とする著書もあった[7]

  • 斉明天皇4年(658年)4月に船軍180隻を率いて蝦夷を討ち、飽田渟代二郡の蝦夷を降伏させる。降伏した蝦夷の酋長・恩荷小乙上の冠位を与えるとともに、渟代津軽二郡の郡領に定めた。また、有間浜で渡島の蝦夷を饗応している[8]。同年7月には蝦夷200人余りが朝廷に参上して物資を献上するとともに、饗応を受けた[9]
  • 同年、比羅夫は粛慎(みしはせ)を平らげ、北海道や樺太に分布する生きているヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上する[10]。粛慎(みしはせ)については、遺伝子分析の結果から蝦夷以外で当時の遺跡を残したオホーツク文化人と近く、現在樺太北部に住むニヴフを粛慎(みしはせ)の末裔とする説[11][12]が有力である。詳細は粛慎 (みしはせ)の項を参照。
  • 斉明天皇5年(659年)3月には船軍180艘を率いて再び蝦夷を討つ。比羅夫は飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を一ヶ所に集めて饗応し禄を与える。また、後方羊蹄(シリベシ)に至り、蝦夷の要請を受けて当地に政所を置き郡領を任命して帰った[13]。「後方羊蹄」の具体的な場所は明らかでないが、余市説[14][15]後志国余市郡)、末期古墳のある札幌・江別説(石狩国札幌郡)や恵庭・千歳説(胆振国千歳郡)があるほか[注釈 1]、江戸時代末期の探検家・松浦武四郎北海道尻別川流域と比定し、同地を後志国(しりべしのくに)、同地の山を後方羊蹄山(しりべしやま)と名付けた。
  • この頃、再び粛慎と戦って帰還し、虜49人を朝廷に献じたともいう[16]
  • 斉明天皇6年(660年)3月に船軍200艘を率いて粛慎を討つ。比羅夫は大河(石狩川あるいは後志利別川と考えられる)のほとりで、粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。比羅夫は粛慎を幣賄弁島(へろべのしま。粛慎の本拠地である樺太[17]奥尻島とする説などがある)まで追って戦い、能登馬身龍が戦死するもこれを破る[18]。同年5月に蝦夷50人余りを献じ、粛慎の47人を饗応した[19]

白村江の戦い

天智天皇元年(662年)8月に中大兄皇子(後の天智天皇)の命により、新羅征討軍の後将軍として百済救援のために朝鮮半島に向かい、武器食糧を送った(この時の冠位は大花下)。しかし、翌天智天皇2年(663年新羅の連合軍に敗れる(白村江の戦い)。この敗北により百済再興はならなかった。

天智天皇3年(664年)新冠位制度(冠位二十六階)の制定に伴って大錦上に叙せられる。またこの頃、筑紫大宰帥に任ぜられている(『続日本紀』)[20]。白村江の戦いののち、唐や新羅の来襲に備え、軍事経験豊かな比羅夫を九州地方の防衛責任者に任じたものと想定される[7]

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樺太とその周辺の地形

モンゴルの樺太侵攻(モンゴルのからふとしんこう)とは、13世紀半ばから14世紀初頭にかけて断続的に行われたモンゴル帝国元朝)による樺太アイヌ(骨嵬)への攻撃を指す。史料が少ないこともあり、その実体には不明な点が多い。同時期にモンゴルによって日本九州北部に対して行われた元寇文永の役・弘安の役)と比較されて「北からの蒙古襲来[1]もうひとつの蒙古襲来[2]北の元寇」などと呼ばれるが、両者の間に関連性があるかどうかは疑わしい(後述)。

背景

樺太(サハリン島)には、後のニヴフ(ギリヤーク)につながると思われるオホーツク文化(採集・漁撈を中心とする)や、アイヌが担い手だったと思われる擦文文化(雑穀農耕を含む採集生活を中心とし、土器を製作する)などの遺跡が混在しており、中世にもニヴフ・アイヌが混住していたと思われる[3]。オホーツク文化・擦文文化の終了をどの時期とするかは諸説あるが、13世紀ないし14世紀頃を画期とする説が有力であり、日本やモンゴル・ツングース(女真族)等周辺民族との交易を主体とする文化に切り替わりつつあった[4]

黒竜江(アムール川)下流域に関しても残存史料が少なく、どのような民族が支配していたか不明瞭な部分が多いが、契丹)やなどの王朝が支配を伸ばしていたと思われる。元代の地誌である『元一統志』によれば、前代の王朝によって奴児干(ヌルガン)城が築かれた址が残っていたことが記されている[5]。『高麗史』には忠烈王13年(1287年)9月に「東真の骨嵬」に駐在していたモンゴルの将軍がいたことが記されている。東真は東夏または大真国とも書かれる金朝の派生国家であり、わずか18年しか存続しなかったが、骨嵬が金の構成民族である女真(ツングース系)の影響下にあったことが伺える[6]

その後、モンゴル帝国もこの地域に勢力を広げ、1260年に大カアンとして即位したクビライ(世祖)の時代に入ると、アムール川下流域へのモンゴル勢力の伸張が行われ、黒竜江(アムール川)下流域に勢力を伸ばし、河口部に近く支流のアムグン川が合流する現在のトィル[7]に「東征元帥府」を設置した[8]。東征元帥府の機能は、先住民(ニヴフ)の支配、流刑囚の管理、屯田の経営などと考えられる[9]

戦いの原因は、モンゴルがニヴフとアイヌの人たちとの交易をやめさせようとしたために起きたという説がある[10]

元朝によるアイヌ攻撃

1264年の遠征

アムール川下流域から樺太にかけての地域に居住していた「吉里迷」(ギレミ、吉烈滅)は、モンゴル建国の功臣ムカリ(木華黎)の子孫であるシデ(碩徳)の遠征により1263年(中統4年)にモンゴルに服従した[11]。翌1264年(至元元年)に吉里迷の民は、「骨嵬」(クイ)や「亦里于」(イリウ)が毎年のように侵入してくるとの訴えをクビライに対して報告した。

ここで言う吉里迷はギリヤーク(ニヴフ)族、骨嵬(苦夷とも)はアイヌ族を指しているとされる[5][12]。亦里于に関してはかつてツングース系民族(ウィルタ)と見る説が有力であったが、近年では骨嵬とは別のアイヌ系集団であったとする説が唱えられている[13]。この訴えを受け、元朝は骨嵬を攻撃した[14]。これがいわゆる「北からの蒙古襲来」の初めであり、北九州への侵攻(文永の役、1274年(至元11年))より10年早かった。

1284-1286年の連続攻撃

この後、元によるアイヌ攻撃は20年ほどのあいだ、見られなくなる。ただし1273年には塔匣剌(タカラ)が征東招討司に任命され、アイヌ攻撃を計画したが[15]、賽哥小海(間宮海峡)の結氷を待つとの理由で、結局実行には移されなかった[16]

しかし北九州への2度目の侵攻(弘安の役、1281年)の失敗後、1284年に聶古帯(ニクタイ)を征東招討司に任じ、アイヌ攻撃が命令された[17]。この計画はいったん見合わせとなったが、同年の冬に征東招討司による骨嵬征伐が20年ぶりに実行に移されている[18]

その翌年(1285年)にも元朝は征東招討司塔塔児帯(タタルタイ)・兀魯帯(ウロタイ)に命じて兵力1万人で骨嵬(アイヌ)を攻撃させた[19]

さらにその翌年(1286年)にも3年続けてアイヌ攻撃が行われた。このときの侵攻では「兵万人・船千艘」を動員したとされ[20]、前年もほぼ同様の規模であったという[5]。この遠征には兵站確保のため、屯田も設置されたが、翌1287年のナヤンの乱などの動揺もあり、長くは続かなかった[21]

アイヌの樺太撤退と反撃

これ以降、元からアイヌへの攻撃は止むが、元の勢力圏外からアイヌによる攻撃があったことが元側の記録に頻出する[22]中村和之はこれらの動きから、元によるアイヌ攻撃は、アイヌによる黒竜江流域への侵入を排除するために行われ、アイヌの根拠地を攻めて滅亡させる目的ではなかったとし、1284年からの3年連続の攻撃により、アイヌ勢力は樺太からほぼ排除されてしまったと主張する[23]。元朝は、樺太南端に前進基地として「果夥(クオフオ)」城を設けている。西能登呂岬に遺跡が残る白主土城は、アイヌ伝統のチャシとはかなり構造の違う方形土城で中国長城伝統の版築の技法が使われており、ここで言う「果夥」であった可能性が高い[23][24]。元軍はこの果夥を拠点として、宗谷海峡を北上しようとするアイヌを牽制したものと思われる。これ以降、アイヌは樺太に対して散発的な侵入しか行うことはできなかった。

1296年には、ニブフのオフェンとブフリがアイヌに投降して悪事をなしたのと記録が『元分類』巻41にある。

1297年大徳元年)にも、5月にアイヌのウァインがニブフの船にのり大陸のチリマ岬に渡り乱をなすと、元軍は同年6月にアムール河下流域のヒチトルでアイヌ軍を破り、同年7月には元軍がアムール川下流域のフリ川に攻め入ったアイヌを破っている[25]。さらに、8月にはアイヌのブフスらが海を渡ってニヴフの打鷹人を捕虜にしようとしているとの訴えが、ニヴフから元朝に対してなされている[26]。日本では鷲羽は、アイヌ交易の代表品として捉えられており[27]、アイヌは鷹羽・鷲羽流通の掌握を狙っていたと思われる[28]

鎌倉幕府への元寇との関係性

1264年から84年にかけて、元によるアイヌ攻撃が20年も中断しており、その間に鎌倉幕府に対する元寇(文永の役・弘安の役)が行われたこともあり、九州遠征に女真人を動員したために「北からの蒙古襲来」が中断したとする考えがある[29][30]。しかし、当時の元側の地理認識では、日本本土は実際の位置よりかなり南方にあると捉えられており[31]、樺太と日本本土の地理的つながりについての知識が元側にあったとは思えない。元・明代の地図に樺太が描かれた例はなく、初めて樺太が中国の地図に描かれたのは代中期1719年の『皇輿全覧図』であった。北海道(蝦夷地)に関してもほとんど認識されておらず、南宋代の『仏祖統記』に載せた地図では、蝦夷が日本よりも南に位置しているなど、地理認識の不正確さを物語っている[23]

戦争の発端についても、モンゴル(元)側からの外交使節を日本(鎌倉幕府)側が拒絶したことがきっかけとなった元寇に対し、モンゴル・アイヌ間戦争の場合は、はじめにアイヌ側からニヴフへの侵攻があり、モンゴルにとってニヴフの訴えを採り上げて行った防御的措置にすぎなかった。このため元による樺太遠征は、日本への攻撃と関連性を持っていたとは言い難い。以上により、この一連のモンゴルによるアイヌ攻撃を「北からの元寇」と呼ぶのは正確ではない。ただし日本側の史料では、モンゴルのアイヌ攻撃を一つの契機として60年にわたる内乱に及んだ安東氏蝦夷の反乱(安藤氏の乱)を、元寇と並ぶ国難と見なす考え方が存在した[32]。その意味では「もうひとつの蒙古襲来」ということもできる[33]

樺太アイヌのその後

1305年大徳9年)、アイヌが大陸のナムホチュモ川などを襲撃し、元軍が追跡するも及ばなかった[34]

1308年至大元年)にはアイヌの玉善奴・瓦英(イウシャンヌ・ウァイン)らが、ニヴフの多伸奴・亦吉奴らを仲介として、毛皮の朝貢を条件に元朝への服属を申し入れた[35][36]

14世紀前半に熊夢祥によって書かれたと思われる大都北京)の地誌『析津志』には、銀鼠(オコジョ)に関する記事中に「遼東の骨嵬に之が多く、野人が海上の山藪に店舗を設け、中国の物産と交易する」と記されており、アイヌと野人女真との間で沈黙交易が行われていたことが伺える[37][38]。この史料中の「海上」は当時「海島」と呼ばれた樺太である可能性が高い。逆に中国からアイヌへもたらされた蝦夷錦は、津軽安藤氏を通じて日本へも流通していく。

1368年に王朝が成立し、モンゴル(元)は北へ後退。1387年には満洲(マンチュリア)地域からも元の勢力が後退し、アムール川下流域・樺太におけるモンゴルの影響も低下したため、再びアイヌは樺太へ進出したと思われる[39][40]

明の永楽帝は、1411年永楽9年)に元の東征元帥府が置かれていたトィルに女真人の宦官亦失哈(イシハ)を派遣し、「奴児干都司」を設置させたが[41]、この亦失哈が建てた仏教寺院の永寧寺(えいねいじ)に1413年に建てられた石碑『奴児干永寧寺碑記』によれば、当時の樺太にはアイヌが住んでいたという[37]。ただし、奴児干都司は元の東征元帥府に較べて影響力が弱く、1433年建立の「重建永寧寺碑記」には寺が焼かれたことが示されており、仏教を利用した明の統治は先住民の人たちからは受け入れられず[42][43]、奴児干都司も程なく機能を停止した[44]。なお、1806年に樺太から間宮海峡を渡ってアムール川下流域まで進んだ日本の間宮林蔵や、同地が清領からロシア帝国領に編入される時期の1854年から1860年にかけてアムール川下流域を探索したロシア人探検家は明代にトィルの丘に築かれたモニュメントを目撃し、後者はスケッチで残している。

また1449年の土木の変以後、明の北方民族に対する影響力が低下すると、アイヌと明との交易も急激に衰え、生活必需品である鉄器などの供給が枯渇し、アイヌにとって日本本土との交易への依存度が高くなる[45]。和人との間で鉄刀(マキリ)の値段交渉決裂をきっかけとして起きたコシャマインの戦いも、これらの状況が背景にあった可能性がある[38]

安藤氏の乱(あんどうしのらん)は、鎌倉時代後期、エゾの蜂起と安藤氏の内紛が関係して起こった乱。エゾはアイヌが主体であると考えられている。蝦夷大乱津軽大乱[1]とも呼ばれる。

概要

発端は、1268年文永5年)に津軽でエゾの蜂起があり、蝦夷代官職の安藤氏が討たれた事件である。この時期には元朝が日本に通交を求めており、日蓮はエゾの乱と並立して国難であると警告している。エゾが蜂起した原因については得宗権力の拡大で収奪が激化したこと、日持ら僧による北方への仏教布教や、また元朝が樺太アイヌ征討を行っていることが指摘されている。

更に1318年文保2年)以前から続いていたと見られている蝦夷代官・安藤季長(安藤又太郎)と従兄弟の安藤季久(安藤五郎三郎)との間の内紛に、1320年元応2年)出羽のエゾの再蜂起が加わった。内紛の背景には、本来の惣領であった五郎家[2](外の浜安藤氏)から太郎家(西浜安藤氏)に嫡流の座が移ったことがあるとする見解がある[3]

1322年元亨2年)、紛争は得宗家公文所の裁定にかけられたが、『保暦間記』等によれば、内管領長崎高資が対立する2家の安藤氏双方から賄賂を受け双方に下知したため紛糾したものであり、エゾの蜂起はそれに付随するものとして書かれている。

1325年正中2年)、得宗家は蝦夷代官職を季長から季久に替えたが、戦乱は収まらず、却って内紛が反乱に繋がったと見られている。なお『諏訪大明神絵詞』には両者の根拠地が明確に書かれていない。季長は西浜折曾関(現青森県深浦町関)、季久は外浜内末部(現青森市内真部)に城を構えて争ったとする説[4]と、その反対であるとする説[5]がある。

その後も季長は得宗家の裁定に服さず、戦乱は収まらなかったため、翌1326年嘉暦元年)には御内侍所工藤貞祐が追討に派遣された。貞祐は旧暦7月に季長を捕縛し鎌倉に帰還したが、季長の郎党悪党が引き続き蜂起し、翌1327年(嘉暦2年)には幕府軍として宇都宮高貞[6]小田高知を再び派遣し、翌1328年(嘉暦3年)には安藤氏の内紛については和談が成立した。和談の内容に関しては、西浜折曾関などを[7]季長の一族に安堵したものと考えられている[4]。季長のその後の消息は不明であるが、諸系図や伝承等から湊上国系安東氏との関係を指摘する見解がある[8]

この乱の詳細については不明であるが、御内人の紛争を得宗家が処理できずに幕府軍の派遣となり、更に武力により制圧できなかったことは東夷成敗権の動揺であり、幕府に大きな影響を与えたという見方が定着している。エゾは夷敵と認識されており、元寇の頃と同様に異族降伏の祈祷が行われている。後世に成立した史書においては、エゾの乱は1333年に滅亡する幕府の腐敗を示す例として評され、幕府衰退の遠因となったとする見解もある[9]

コシャマインの戦い(コシャマインのたたかい)は、1457年に発生したアイヌ和人との戦い。

概要[編集]

応仁の乱のちょうど10年前の1457年(康正3年、長禄元年)に起きた和人に対するアイヌの武装蜂起。現在の北海道函館市にあたる志濃里(志苔、志海苔、志法)の和人鍛冶屋と客であるアイヌの男性の間に起きた口論をきっかけに、渡島半島東部の首領コシャマイン(胡奢魔犬[1]、コサマイヌとも呼ばれる)を中心とするアイヌが蜂起、和人を大いに苦しめたが最終的には平定され、松前藩形成の元となった。

製鉄技術を持たなかったアイヌは製品を交易に頼っており、や渡島半島から道南に進出した和人(渡党道南十二館などを参照)との取引を行っていた。しかし1449年の土木の変以後、明の北方民族に対する影響力が低下すると明との交易が急激に衰え、和人への依存度が高まった。そこにアイヌの男性[2]が志濃里の鍛冶屋に小刀(マキリ)を注文したところ、品質と価格について争いが発生した。怒った鍛冶屋がその小刀でアイヌの男性を刺殺したのがこの戦いのきっかけである。

1456年(康正2年)に発生したこの殺人事件の後、首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、1457年5月に和人に向け戦端を開いた。胆振鵡川から後志余市までの広い範囲で戦闘が行われ、事件の現場である志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館を攻め落とした。アイヌ軍は更に進撃を続け、和人の拠点である道南十二館の内10までを落としたものの、1458年(長禄2年)に武田信広によって七重浜でコシャマイン父子がで射殺されるとアイヌ軍は崩壊した。

この事件の前年まで道南に滞在していた安東政季の動向などから、事件の背景に当時の北奥羽における南部氏安東氏の抗争を見る入間田宣夫の見解や、武田信広と下国家政による蝦夷地統一の過程を復元しようとする小林真人の説がある[3]

アイヌと和人の抗争はこの後も1世紀にわたって続いたが、最終的には武田信広を中心にした和人側が支配権を得た。しかし信広の子孫により松前藩が成った後もアイヌの大規模な蜂起は起こっている(シャクシャインの戦いクナシリ・メナシの戦い)。

1994年平成6年)より毎年7月上旬、北海道上ノ国町夷王山で、アイヌ・和人の有志による慰霊祭が行われている。

ヘナウケの戦い(-たたかい)は、1643年渡島半島西部で起こったアイヌの首長ヘナウケ[1]による松前藩との戦い。

寛永20年(1643年)、シマコマキ(現島牧郡島牧村)の首長ヘナウケが松前藩に対して蜂起を開始。松前藩から佐藤権左衛門・新井田権之助・厚谷平蔵らが派遣され、両勢力はセタナイ(現久遠郡せたな町)で交戦する。3月16日(1643年5月4日)には、上級藩士の一人であった南條安右衛門が戦死している。同年5月に佐藤権左衛門らは帰還、その後松前氏の一族にあたる蠣崎利広がセタナイに赴いており、この時に和睦が成立したと見られる。

この蜂起の背景として、まず金掘り(砂金掘り)の存在があげられる。元和2年(1616年)から蝦夷が島(現北海道)においてゴールドラッシュが発生し、多数の金掘りが本州から渡って来た[2]。寛永8年(1631年)にはシマコマキでも砂金の採取が始まっている。アイヌの支配地域において砂金を採取する場合はそこの首長に対しても対価を支払っていたとされ、シブチャリの首長シャクシャインにも親しい関係の金掘りが存在したことから、ヘナウケも同様の関係にあった可能性が指摘されている。

また蜂起の3年前にあたる寛永17年6月13日(1640年7月31日)には内浦岳(現駒ヶ岳)が噴火しており、松前では14日から15日にかけて空が火山灰に覆われ闇夜のような状態になったという。この噴火によって渡島半島周辺は大きな被害を受け、翌年の夏には亀田の金掘りが津軽に逃亡するという事件も発生している。この天災が蜂起の一因になったと見られている。

蜂起の指導者シャクシャイン像(現存しない)

シャクシャインの戦い(シャクシャインのたたかい)は、1669年6月にアイヌ民族シブチャリの首長シャクシャインを中心として起きた蜂起。アイヌの2部族の抗争・報復の最中に松前藩に対する武器貸与要請の使者に関する誤報から、松前藩への大規模な蜂起に発展した[1]日本元号で「寛文」年間に発生したことから、寛文蝦夷蜂起(かんぶんえぞほうき)とも呼ばれている。

概要

アイヌ民族部族間対立・報復合戦

シブチャリ以東の太平洋沿岸に居住するアイヌ民族集団メナシクルと、シブチャリからシラオイにかけてのアイヌ民族集団であるシュムクルは、シブチャリ地方の漁猟権をめぐる争いを続けていた。この東西の2部族の対立は、文献においては多くの死者が出たとされる1648年の戦いまで遡ることが出来るほど根深いものだった[2]

15世紀頃から交易や和人大和民族)あるいはアイヌ同士の抗争などによって地域が文化的・政治的に統合され、17世紀には、河川を中心とした複数の狩猟・漁労場所などの領域を含む広い地域を政治的に統合し、和人から惣大将惣乙名と呼ばれる有力首長が現れていた。シャクシャインや、『津軽一統志』に現れるイシカリの首長ハウカセ、ヨイチの八郎右衛門やシリフカのカンニシコルなどがこれに相当する。アイヌ民族は松前城下や津軽や南部方面まで交易舟を出し和人製品である鉄製品・漆器・米・木綿などを北方産物である獣皮・鮭・鷹羽・昆布などと交易していた。しかし17世紀以降、幕藩体制が成立すると幕府により対アイヌ交易権は松前藩が独占して他の大名には禁じられることとなった。アイヌ民族にとっては対和人交易の相手が松前藩のみとなったことを意味し和人との自由な交易が阻害されることとなった。 これは松前家の事跡を記した『新羅之記録』より、まだ蠣崎姓の時代に、秀吉から、蠣崎に交易の独占を保証する朱印が与えられていることが分かる。徳川時代では、徳川家の歴史を記した『徳川実紀』より、家康から黒印状を与えられ、独占権をより強固なものとする。

幕府権力を背景にした松前藩では17世紀後半には対アイヌ交易は松前城下などでの交易から商場知行制に基づく交易体制へと移行した。これは松前藩が蝦夷地各地に知行主(松前藩主や藩主一族及び上級藩士など)と彼らの知行地である商場を設定して知行主には直接商場に出向きそこに居住するアイヌ民族との交易権を与える交易体制であった。ナシクルの首長であるカモクタインやシュムクルの首長でありハエ(後の日高国沙流郡、現在の日高町門別地区)に拠点を持つオニビシもまた惣大将である。シャクシャインはメナシクルの副首長であったが、カモクタインは1653年にシュムクルによって殺害されたために首長となった。惣大将間の抗争を危惧した松前藩は仲裁に乗り出し1655年に両集団は一旦講和する。この際シュムクルと松前藩は接近しシュムクルは親松前藩的な立場となる。1667年オニビシの甥がシャクシャインの同盟関係にあるウラカワで鶴を獲り、シャクシャインによって殺されたのを機に再燃。1668年5月31日(寛文9年4月21日)仲裁するといって中に入った金堀り・文四郎の館にやって来た、オニビシをシャクシャインらが数十人で襲い殺害した[3]

武器供与要請・誤報・蜂起

シャクシャインにオニビシを殺されたハエのアイヌは松前藩庁に武器の提供[要出典]を希望した(調停を求めた[4])が、対立の深化を望まない藩側に拒否された。悪いことにシャクシャイン率いるメナシクルへさらなる報復のためシュムクルの人々から松前藩に武器貸与要求[要出典]を伝えた使者(調停を願い出た使者[5])、サル(現日高振興局沙流郡)の首長ウタフが帰路に疱瘡にかかり死亡してしまった。このウタフ死亡の知らせが、「松前藩による毒殺」と流布された。この誤報によりアイヌ民族は松前藩、ひいては和人に対する敵対感情を一層強めた。これによって、シャクシャインは敵対していたシュムクルを筆頭に蝦夷地各地の各アイヌ部族へ松前藩への蜂起を呼びかけた。1669年6月21日寛文9年6月4日) 、シャクシャインらの呼びかけによりイシカリ(石狩地方)を除く東は釧路のシラヌカ(現白糠町)から西は天塩のマシケ(現増毛町)周辺において一斉蜂起が行われた。決起した2千の軍勢は鷹待や砂金掘り、交易商船を襲撃した。突然の蜂起に和人は対応できず東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人の和人が殺された[2](大半が老人婦女子の非戦闘員で士卒は5名であった。犠牲者の総数は355人に上る[6])。

松前藩の反撃とその後

一斉蜂起の報を受けた松前藩は家老の蠣崎広林が部隊を率いてクンヌイ(現長万部町国縫)に出陣してシャクシャイン軍に備えるとともに幕府へ蜂起を急報し援軍や武器・兵糧の支援を求めた。幕府は松前藩の求めに応じ弘前津軽氏・盛岡南部氏・秋田(久保田)佐竹氏の3藩へ蝦夷地への出兵準備を命じ、松前藩主松前矩広の大叔父にあたる旗本の松前泰広を指揮官として派遣した。弘前藩兵700は藩主一門の杉山吉成石田三成の嫡孫)を大将に松前城下での警備にあたった。

シャクシャインは弓矢主体で鉄砲27丁を所有していたの対し、松前藩は鉄砲16丁であったので、津軽・南部藩などから鉄砲を借り受け、計70丁で応じた[7]。戦闘は8月上旬頃まで続いたが、内浦湾一帯のアイヌ民族集団と分断され協力が得られなかったことからシャクシャイン軍に不利となった。

このためシャクシャインは後退し松前藩との長期抗戦に備えた。9月5日8月10日)には松前泰広が松前に到着、同月16日8月21日)にクンヌイの部隊と合流し28日9月4日)には松前藩軍を指揮して東蝦夷地へと進軍した。さらに松前泰広は松前藩関係の深い親松前的なアイヌの集落に対して、恭順させた。アイヌ民族間の分断とシャクシャインの孤立化が進んだ。部族意識が強く、長年の部族間対立や松前藩との関係に差があったために、中立を維持して蜂起側に参加しなかった集団も多かった。さらに敵対していたアイヌらは松前藩への味方を表明して、松前側として戦闘に加わった[1]

シブチャリに退いたシャクシャインは徹底抗戦の構えであったが、鉄砲の威力で松前藩勢の優位の展開となり、償いの宝物などの提出、シャクシャインらは助命という条件で和議となった。戦いの長期化による交易の途絶や幕府による改易を恐れた和睦の申し出だったが、シャクシャインはこの和睦に応じ11月16日10月23日)、ピポク(現新冠郡新冠町)の松前藩陣営に出向くが和睦の酒宴で謀殺された。この他アツマ(現勇払郡厚真町)やサル(現沙流郡)に和睦のために訪れた首長も同様に謀殺あるいは捕縛された。翌17日24日)にはシャクシャインの本拠地であるシブチャリのチャシも陥落した。指導者層を失った蜂起軍の勢力は急速に衰え、戦いは終息に向かった。翌1670年には松前軍はヨイチ(現余市郡余市町)に出陣してアイヌ民族から賠償品を取るなど、各地のアイヌ民族から賠償品の受け取りや松前藩への恭順の確認を行った。戦後処理のための出兵は1672年まで続いた。

このシャクシャインの戦いを経て、松前藩は蝦夷地における対アイヌ交易の絶対的主導権を握るに至った。その後、松前藩は中立の立場をとり蜂起に参加しなかった地域集団をも含めたアイヌ民族に対し七ヵ条の起請文によって服従を誓わせた(『渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書』)。これにより松前藩のアイヌに対する経済的・政治的支配は強化された。その一方でアイヌにとって不利になる一方だった米と鮭の交換レートをいくぶん緩和するなど、融和策も行われた。

また『津軽一統志』にみられる惣大将というアイヌ有力首長によって統一されていた広大な地域は商場知行制や場所請負制が発展・強化されることによって場所ごとに分割されることとなり、「下人狄千人程」をもつ石狩の惣大将ハウカセの「松前殿は松前殿、我等は石狩の大将」と言う発言に象徴される強い自立性をもつアイヌ民族の地域統一的な政治結合も解体されていった。

ヨイチなど地域によっては自分稼ぎと呼ばれるアイヌ民族主体の自主的な漁業も何とか維持されたが、松前藩による場所請負制の貫徹・大規模な漁場開発に伴う窮状の原因となった。松浦武四郎の『知床日誌』には「女は最早十六七にもなり、夫を持べき時に至ればクナシリ島へ遣られ、諸国より入来る漁者、船方の為に身を自由に取扱はれ、男子は娶る比に成らば遣られて昼夜の別なく責遣はれ、其年盛を百里外の離島にて過す事故、終に生涯無妻にて暮す者多く」と記されている。

2016年10月28日、北海道長万部町はシャクシャインの戦いで激戦地となった国縫川ほとりの旧国縫小敷地に「シャクシャイン古戦場跡碑」を設置して除幕式が行われた[8]。この碑は台座からの高さ2m、幅3m、奥行き1mの大きさで御影石製である[8]

クナシリ・メナシの戦い(クナシリ・メナシのたたかい:国後・目梨の戦いと表記されることもある)は、1789年寛政元年)に東蝦夷地北海道東部、道東)で起きたアイヌ蜂起。事件当時は「寛政蝦夷蜂起」または「寛政蝦夷の乱」と呼ばれた。

概要

和人とアイヌの関わり

松前藩の『新羅之記録』には、1615年元和元年)から1621年(元和7年)頃、メナシ地方(現在の北海道目梨郡羅臼町標津町周辺)の蝦夷(アイヌ)が、100隻近い舟に鷲の羽やラッコの毛皮などを積み、松前ウィマム[1]し献上したとの記録がある。また、1644年正保元年)に「正保御国絵図」が作成されたとき松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれ、1715年(正徳5年)には、松前藩主は江戸幕府に対し「十州島唐太千島列島勘察加」は松前藩領と報告。1731年(享保16年)には、国後・択捉の首長らが松前藩主を訪ね献上品を贈っている。1754年(宝暦4年)道東アイヌの領域の最東端では、松前藩家臣の知行地として国後島のほか択捉島得撫島を含むクナシリ場所が開かれ、国後島の泊には交易の拠点および藩の出先機関として運上屋が置かれていた。運上屋では住民の撫育政策としてオムシャなども行われた。1773年(安永2年)には商人・飛騨屋がクナシリ場所での交易を請け負うようになり、1788年天明8年)には大規模な〆粕の製造を開始するとその労働力としてアイヌを雇うようになる。〆粕とは、魚を茹でたのち、魚油を搾りだした滓を乾燥させて作った肥料。主にが原料とされるが、クナシリではが使用された。漁場の様子については北海道におけるニシン漁史も参照。

一方、アイヌの蜂起があった以前から、1643年にはオランダ東インド会社の探検船「カストリクム号」が択捉島得撫島を発見、厚岸湾に寄港、北方からはロシアが北千島(占守郡新知郡)即ち千島アイヌの領域まで南進しており、江戸幕府はこれに対抗して1784年(天明4年)から蝦夷地の調査を行い、1786年(天明6年)に得撫島までの千島列島を最上徳内に踏査させていた。千島アイヌは北千島において抵抗するも、ロシア人に武力制圧された上で毛皮税などの重税を課され、経済的に苦しめられていた。一部の千島アイヌはロシアから逃れるために、道東アイヌの領域の得撫島や択捉島などに南下した。これら千島アイヌの報告によって日本側もロシアが北千島に侵出している現状を察知し、北方警固の重要性を説いた『赤蝦夷風説考』などが著された[2]

アイヌの蜂起

1789年(寛政元年)、クナシリ場所請負人・飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリ場所(国後郡)のアイヌが、クナシリ惣乙名ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害した。蜂起をよびかけた中でネモロ場所メナシのアイヌもこれに応じて、和人商人を襲った。松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの乙名たちも説得に当たり蜂起した者たちは投降、蜂起の中心となったアイヌは処刑された。蜂起に消極的なアイヌに一部の和人が保護された例もあるが、この騒動で和人71人が犠牲となった。松前藩は、鎮定直後に飛騨屋の責任を問い場所請負人の権利を剥奪、その後の交易を新たな場所請負人・阿部屋村山伝兵衛に請け負わせた。一方、幕府は、寛政3~4年、クナシリ場所やソウヤ場所で「御救交易」を行った。ロシア使節アダム・ラクスマンが通商を求めて根室に来航したのは、騒動からわずか3年後の寛政4年のことである。

事件から10年を経た1799年(寛政11年)東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)が、続いて1807年(文化4年)和人地および西蝦夷地(北海道日本海岸・樺太(後の北蝦夷地)・オホーツク海岸)も公議御料となった。

蜂起の後

北見方面南部への和人(シサム・シャモ)の本格的な進出が始まったのはこの蜂起の後、江戸幕府が蝦夷地を公議御料として、蝦夷地への和人の定住の制限を緩和してからである。幕府はアイヌの蜂起の原因が、経済的な苦境に立たされているものであると理解し、場所請負制も幕府直轄とした。このことにより、アイヌの経済的な環境は幾分改善された。しかし、これはアイヌが、和人の経済体制に完全に組み込まれたことも意味していた。[2]

幕末の1845年、1846年に知床地方を訪れた松浦武四郎が1863年に出版した「知床日誌[3]」によると、アイヌ女性が年頃になるとクナシリに遣られ、そこで漁師達の慰み物になったという。また、人妻会所番人達のにされ、男性は夫役のため離島で5年も10年も酷使され、独身者は妻帯も難しかったとされる。

また、幕末に箱館奉行種痘を行い対策を講じたものの、和人がもたらした天然痘などの感染症が猛威をふるい、本格的にアイヌ人の人口を減少させた。その結果文化4年(1804年)に2万3797人と把握された人口(江戸時代の日本の人口統計も参照)が、明治6年(1873年)には1万8630人に減ってしまった。アイヌの人口減少はそれ以降も進み、北見地方全体で明治13年(1880年)に955人いたアイヌ人口は、明治24年(1891年)には381人にまで減った。

文化露寇(ぶんかろこう)は、文化3年(1806年)と文化4年(1807年)にロシア帝国から日本へ派遣された外交使節だったニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件[1]。事件名は日本の元号に由来し、ロシア側からはフヴォストフ事件ロシア語: Инцидент Хвостова)とも呼ばれる。

概要

江戸時代後期の1804年ロシア皇帝アレクサンドル1世から派遣されたニコライ・レザノフにより行われた通商要求行動の後にロシア側から行われた軍事行動である。それに先だってロシアはエカチェリーナ2世治下の1792年アダム・ラクスマン根室に派遣し、日本との通商を要求したが、江戸幕府はシベリア総督の信書を受理せず、通商要求に対しては長崎への廻航を指示、ラクスマンには長崎への入港許可証(信牌)を交付した。

文化元年(1804年)、これを受けて信牌を持参したレザノフが長崎に来航し、半年にわたって江戸幕府に交渉を求めたが、結局幕府は通商を拒絶し続けた。レザノフは幽閉に近い状態を余儀なくされた上、交渉そのものも全く進展しなかったことから、日本に対しては武力をもって開国を要求する以外に道はないという意見を持つに至り[注釈 1]、また、日本への報復を計画し、樺太択捉島など北方における日本側の拠点を部下に攻撃させた。レザノフの部下ニコライ・フヴォストフロシア語版は、文化3年(1806年)には樺太の松前藩居留地を襲撃し、その後、択捉島駐留の幕府軍を攻撃した。幕府は新設された松前奉行[注釈 2]を司令官に、弘前藩南部藩庄内藩久保田藩から約3,000名の武士が徴集され、宗谷斜里など蝦夷地の要所の警護にあたった。しかし、これらの軍事行動はロシア皇帝の許可を得ておらず、不快感を示したロシア皇帝は、1808年全軍に撤退を命令した。これに伴い、蝦夷地に配置された諸藩の警護藩士も撤収を開始した。なお、この一連の事件では、日本側に、利尻島で襲われた幕府の船から石火矢大砲の一種)が奪われたという記録が残っている(後述)[1]

樺太への襲撃

文化3年9月11日(1806年10月22日)、樺太の久春古丹短艇で上陸したロシア兵20数名は、銃で威嚇して17、18歳のアイヌの住民の子供1人を拉致した。13日にも30数人の兵が再び上陸し運上屋の番人4名を捕えた後、米六百俵と雑貨を略奪し11箇所の家屋を焼き、魚網及び船にも火を放ち、前日拉致した子供を解放して帰船。ロシア側本船は17日に出帆しその地を去った。船を焼失した影響で連絡手段が絶たれたため、翌年4月になってこの事件が松前藩及び幕府に報告された。

シャナ事件

シャナ事件
戦争文化露寇
年月日:文化4年4月23日(1807年5月30日)~文化4年5月1日(1807年6月6日)
場所蝦夷地択捉島
結果:ロシア側の勝利
交戦勢力
ロシアの旗 露米会社武装集団 徳川葵 江戸幕府箱館奉行・津軽・南部軍
指導者・指揮官
ニコライ・フヴォストフ 箱館奉行支配調役下役・戸田又太夫

箱館奉行支配調役下役・関谷茂八郎

戦力
不明 200~300
損害
不明 日本側の全軍撤退、紗那幕府会所の喪失

文化4年4月23日、ロシア船二隻が択捉島の西、内保湾に入港した。番人はこれを紗那の幕府会所に通報した。紗那は幕府会所のある同島の中心地であり津軽・南部藩兵により警護されていた。箱館奉行配下の役人・関谷茂八郎はこの報に接し、兵を率いて内保まで海路で向かうがその途中、内保の南部藩の番屋が襲撃され、中川五郎治ら番人5名を捕え米、塩、什器、衣服を略奪して火を放ち、本船に帰り既に出帆したとの報を受ける。関谷は内保行きを中止して紗那に戻り、その守りを固める。

4月29日、ロシア船が紗那に向けて入港してくる。即時交戦を主張した弘前、南部の隊長の意見を退けた幕吏達は、まず対話の機会を探るため箱館奉行配下の通訳・川口陽介に白旗を振らせて短艇で上陸しようとするロシア兵を迎え入れようとするが、ロシア兵はこれを無視し上陸後即座に日本側に銃撃をしかけたため、川口は股部を銃が貫通し負傷する。幕吏もようやく対話の困難を認め津軽・南部藩兵に応戦を命じるも、圧倒的な火力の差に日本側は苦戦する。夕刻となりロシア側は本船に帰船。艦砲射撃により陸上を威嚇する。このような圧倒的な戦力差により戦意を失った指揮官の戸田又太夫、関谷茂八郎達は、紗那を捨て撤退することを決意する。幕吏の間宮林蔵久保田見達はこの場での徹底抗戦を主張するも戸田らに退けられる。これにより敗戦の責任を痛感した戸田は、留別へ向けて撤退中の野営陣地にて自害している。一行は振別に到着後多少の人員を箱館に送還し、弘前・南部藩兵は警備の都合上そのまま振別に駐屯させている。

5月1日、日本側が引き揚げた紗那幕府会所にロシア兵が上陸。倉庫を破り米、酒、雑貨、武器、金屏風その他を略奪した後放火する。翌2日にも上陸し、この際に戦闘で負傷しその場に留まっていた南部藩の砲術師、大村治五平がロシア側の捕虜となっている。5月3日、ロシア船は出帆し紗那を去る。

6月6日、捕虜となっていた大村治五平や番人達が解放され宗谷に帰還する。

影響

この事件は、爛熟した化政文化の華が開き、一見泰平にみえる日本であらためて国防の重要性を覚醒させる事件となった。江戸幕府の首脳はロシアの脅威を感じることとなり、以後、幕府は鎖国体制の維持と国防体制の強化に努めた。また、日露関係の緊張によって、幕府は自らの威信を保つためにも内外に対して強硬策を採らざるを得なくなった。このことは1811年ゴローニン事件の原因となった。さらに、この事件は平田篤胤国学を志すきっかけとなったともいわれている[1]

2010年、文化露寇の際にロシア側が日本から分捕った品々の多くはロシア政府に渡り、現在サンクトペテルブルクの人類学・民俗学博物館(クンストカメラ)に収蔵されていることが東京大学史料編纂所の調査で明らかになった[1]。内訳は南部兵の甲冑や刀、鑓、鉄砲といった武器を始め日用品も含まれているが、接収された大砲3門のうちのフランキ砲の1門には「FRCO」を重ね文字で表す印章が附されている。この印章は「フランシスコ」の洗礼名を表し、キリシタン大名・大友宗麟が用いた「国崩し」の1つだと考えられる[2]

日露戦争(にちろせんそう)は、1904年明治37年)2月[注釈 3]から1905年(明治38年)9月にかけて大日本帝国ロシア帝国との間で行われた戦争である。朝鮮半島満州の権益をめぐる争いが原因となって引き起こされ、満州南部と遼東半島がおもな戦場となったほか、日本近海でも大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国はアメリカ合衆国の仲介の下で調印されたポーツマス条約により講和した。

講和条約の中で日本は、朝鮮半島における権益を認めさせ、ロシア領であった樺太の南半分を割譲させ、またロシアが清国から受領していた大連旅順租借権を獲得した。同様に東清鉄道旅順 - 長春間支線の租借権も得るに至った。しかし交渉の末、賠償金を得るには至らず戦後外務省に対する不満が軍民などから高まった。 以下略

ソ連対日参戦(ソれんたいにちさんせん)とは、満州国において1945年(昭和20年)8月9日未明に開始された日本関東軍支那派遣軍と極東ソ連軍との間で行われた満州北朝鮮北支における一連の作戦戦闘と、日本の第五方面軍とソ連の極東ソ連軍との間で行われた南樺太千島列島における一連の作戦戦闘である。この戦闘の勃発により、日本の降伏を決定づけることとなった。

日ソ中立条約を破棄したソ連軍による侵攻・領土略奪であるが、ソ連側はこれに先立つ関東軍特種演習の段階で、同条約が事実上破棄されたものとしている[要出典]

日本の防衛省防衛研究所戦史部では、この一連の戦闘を「対ソ防衛戦」と呼んでいるが、ここでは日本の検定済歴史教科書でも一般的に用いられている「ソ連対日参戦」を使用する。ソ連側の作戦名は8月の嵐作戦[要出典]


博物館などアイヌ民族関連施
(このサイト)


民族 集団 

言語 アイヌ語 

歴史 前史 

歴史 交易  

歴史 戦闘 

歴史 政事  

文化・芸術 

文化・生活 

文化・祭事  

その他・動画

旧石器時代 – 紀元前14000年頃
縄文時代 前14000年頃 – 前10世紀
弥生時代 前10世紀 – 後3世紀中頃
古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃
飛鳥時代 0592年 – 0710年
奈良時代 0710年 – 0794年
平安時代 0794年 – 1185年
 王朝国家 10世紀初頭 – 12世紀後期
 平氏政権 1167年 – 1185年
鎌倉時代 1185年 – 1333年
建武の新政 1333年 – 1336年
室町時代 1336年 – 1573年
 南北朝時代 1337年 – 1392年
 戦国時代 1467年(1493年)– 1590年
安土桃山時代 1573年 – 1603年
江戸時代 1603年 – 1868年
 鎖国 1639年 – 1854年
 幕末 1853年 – 1868年
明治時代 1868年 – 1912年
大正時代 1912年 – 1926年
昭和時代 1926年 – 1989年
 GHQ/SCAP占領下 1945年 – 1952年
平成時代 1989年 – 2019年
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